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耳の日:ヘレンケラーと井戸端の奇跡─記憶のかけら、世界を感じる手、そして運命の糸

ヘレンケラーと、ローラ・ブリッジマン、アン・サリバン、グラハム・ベル、チャールズ・ディケンズ
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今日(正確に言うと昨日)は耳の日でした。そこで目が視えず、耳が聴こえない、そして話すこともできないという三重苦をもっていたヘレン・ケラーの自伝をもとに、なぜあの有名な「井戸端の奇跡」が起きてみたのか考えてみたいと思います。

というのも、ヘレン・ケラーがアン・サリバン先生と出会った日が、1887年3月3日だからです。

井戸端の奇跡が起きた理由とは?

今日みなさんにご紹介するヘレン・ケラーの自伝は『THE STORY OF MY LIFE』というタイトルで1904年に出版されました。ウェブ上で原文を無料で読むことができます。また、電子書籍で読みたい場合にはAmazonでKindle版を入手できます。

日本語訳はいくつかバージョンがありますが、最も新しいものでは新潮社から出ている『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』です。(Kindle版はありません。)

ヘレン・ケラーが目がみえず耳もきこえない盲ろう者であり、ラドクリフ・カレッジ(後のハーバード大学)に進学し、世界各地を歴訪しながら、障害者福祉の発展に尽くした人であることは誰もが知るところです。

そして、あの有名な井戸端で”water”の意味を知ったエピソードも、一度はどこかで聞いたことがあると思いますが、なぜそのような奇跡が起きたのかということについては広く知られてはいません。

「井戸端の奇跡」が起きた背景には、記憶のかけら、世界を感じる手、そして運命の糸の3つが組み合わさっていたのではないかと私は考えています。

なお、以下でヘレンの自伝から引用した英文の和訳は風見自身によるものです。

理由その1: ヘレンは”water”という単語を知っていた。

実は、あの有名な場面ではじめて”water”という言葉を知ったというわけではなく、”water”という単語を知ったのは熱病にかかる前のことなのです。

At six months I could pipe out “How d’ye,” and one day I attracted everyone’s attention by saying “Tea, tea, tea” quite plainly.

『生後6か月で「はじめまして」と言い、ある時は、はっきりと「ティー、ティー、ティー」と発音してみんなを驚かせた』

“How d’ye”は”How do you do?”の意で「はじめまして」というフォーマルなあいさつです。

Even after my illness I remembered one of the words I had learned in these early months. It was the word “water,” and I continued to make some sound for that word after all other speech was lost. I ceased making the sound “wah-wah” only when I learned to spell the word.

『熱病にかかったあとも、生まれてから数か月のあいだに覚えたことばのひとつを覚えていました。それは「水」ということばで、全く話せなくなったあとも声を出し続けていました。”wah-wah”と声に出すのをやめたのは、つづりを(サリバン先生に)教わってからです。』

聴こえて視えていたときの記憶のかけら、”water”ということばが、「それは喉が渇いたときに飲むものではなく、井戸から流れていた冷たいものこそが水である」ということを知る鍵となって、音と光のある世界へと通じる扉を開いたのです。

理由2: 病気になる前に、他人の存在を認識し、コミュニケーション能力を身につけることができた

上で触れたように、ヘレンはサリバン先生と出会って間もなく”water”ということばの本質を悟るのですが、それ以前はどのようにして人とコミュニケーションをとっていたのでしょうか。

My hands felt every object and observed every motion, and in this way I learned to know many things. Soon I felt the need of some communication with others and began to make crude signs. A shake of the head meant “No” and a nod, “Yes,” a pull meant “Come” and a push, “Go.” Was it bread that I wanted? Then I would imitate the acts of cutting the slices and buttering them.

『手を使ってあらゆる物体を感じ、あらゆる動きを観察することで、たくさんの物事を学ぶことができました。やがて他人とコミュニケーションをとる必要性に気づき、身振りを使いはじめました。首をふると”No”、うなづくと”Yes”。引くと”Come”、押すと”Go”というふうに。パンがほしいときには?食パンをスライスして、バターを塗る動作をまねていました。』

身振りを使って意思疎通をはかろうとしただけでなく、来客に手を振ってあいさつをしたり、母から何かを取ってきてと頼まれたときには取りに行くこともできたようです。

生まれつきの盲ろう者は、他者の存在を認識することができないため、自分以外の他の人がまわりにいるということを知りません。私自身が白内障の手術を受けるまで、まるで人形のようにおとなしい赤ちゃんでした。

ヘレンの場合はそうではなく自分から人と関わろうとする姿勢がすでにできあがっていました。家族とコミュニケーションをとることができ、サリバン先生と出会って比較的早期のうちに、あらゆるものには名前がついていることを知ることができたのではないかと思います。

理由3: アン・サリバンに出会えた

インターネットもなく、遠く離れた場所への移動も難しかった100年以上前のアメリカで、ヘレンがサリバン先生と出会えたことそれ自体が奇跡なのではないかと私は思います。

サリバン先生とケラー一家の出会いは、英国の小説家ディケンズの American Notes for General Circulationという旅行記で、ローラ・ブリッジマン(Laura Bridgman)という全盲ろうの女性と、彼女に教育を授けたハウ博士のことを母親が知ったことから始まります。

(和訳は岩波書店から『アメリカ紀行』という題名で上下巻2冊が出ています。)

その後、両親とヘレンはワシントン州から30キロメートルほど離れたボルチモアにいる眼科医を訪れます。医者としてできることはないが、この子は教育を受けられる可能性があると伝えて、グラハム・ベル博士を紹介します。

すぐさまグラハム・ベル博士のもとを訪れ、ベル博士がパーキンス盲学校の校長に手紙を書くことを勧めたのです。

それはアラバマ州タスカンビアから、メリーランド州ボルチモアを経由し、ワシントンD.C.に至るまで、500キロメートルにおよぶ長旅で、ヘレンは汽車に乗ったことなど、その旅の出来事を鮮やかに記憶していたようです。

両親から手紙を受け取ったパーキンス盲学校の校長は、生徒であったアン・サリバンに、こんな仕事があるがどうかと勧め、ハウ博士がかつて残したローラ・ブリッジマンの記録を読み込んだうえで、ケラー家へとやってきたのでした。

こうして、ヘレンは、ローラ・ブリッジマンがハウ博士から受けた教育をアン・サリバンの手によって授けられることができたというわけなのです。

両親が一途に託したわずかな希望が、運命の糸を紡いだ

イギリスの小説家チャールズ・ディケンズから、電話の発明で有名なグラハム・ベル博士、そしてパーキンス盲学校にいたアン・サリバンとローラ・ブリッジマン。

ローラとローラを教育したハウ博士の存在が両親に希望を与え、グラハム・ベル博士が教育への道を開き、そしてサリバン先生がことばの世界への扉を開いた。

このことこそがヘレン・ケラーに起きた最大の奇跡なのではないかと思います。

サリバン先生との運命の出会いが、第一、第二の理由で述べたようにヘレン自身が持っていた能力を花咲かせ、本を読んだり文章を書けるようになっていき、ついには大学への進学を果たしたというわけです。

To
ALEXANDER GRAHAM BELL

Who has taught the deaf to speak
and enabled the listening ear to hear
speech from the Atlantic to the Rockies,
I Dedicate
this Story of My Life.

『アレクサンダー・グラハム・ベル─その人は、聴こえない人に話すことを教え、大西洋からロッキー山脈へのことばを聞くことができるようにしたー私はこの人生の物語を捧げます。』