四半世紀の想い出

風疹と私の30年 – 30年前に先天性風疹症候群で生まれた話 –

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「もし風疹と知っていたら産めなかったかもしれない」

出生翌日の写真。保育器の中ですやすや寝ている。

私が先天性風疹症候群で生まれたのは、1987年ごろの風疹大流行の時期です。

2013年の風疹大流行では1万人を超える患者さんが出ましたが、1987年の流行期ははるかに規模が大きく東京都内だけでも3万件の報告があがるほどに猛威をふるっていました。

当時、20代、30代の妊娠適齢期にあった女性の多くは、予防接種を一度も受けていないか、女子中学生のときに一回しか予防接種を受けていませんでした。子どものあいだで流行がおこり、妊婦さんに感染する例があいついでいたのです。

風疹流行のことがニュースでも報じられていたので、結婚前に保健所で抗体検査を受けました。保健所で「抗体があります」と知らされたHI抗体価は16倍。今の基準では32倍必要で風疹を防ぐには十分でない値ですが、当時は16倍では予防接種の必要がないと判断されていたのです。

そして1988年の夏、妊娠に気づいたばかりのころに、発疹、リンパ腺が腫れる症状が出ました。「風疹に罹ってしまったかもしれない…」不安を感じて病院に行ったものの、風疹との診断がつかないまま出産に至りました。

そのときもっときちんと調べていれば、分かったかもしれません。でも、いま考えると妊娠中に風疹とはっきり診断がつかず生まれてくることができて幸運だったのではないかと思います。今も昔も風疹と分かると中絶を迫られることがあるのです。私の母も「もし風疹と知っていたら産めなかったかも」といっていました。

次々と明らかになる障害 残酷な現実に両親は・・・

1989年夏、白内障の手術で入院しているときの写真。ピンク色のくまの人形とともにベッドに寝かされている。

妊娠中には大きなトラブルはなく、出産の日を迎えました。出産そのものは順調にすすみ、待ちに待った我が子の対面のときがやってきました。ところが、理由を告げられずに別室へ連れていかれることになってしまったのです。

面会は1日に一度保育器越しで、4日目に心臓に異常があるとの説明を受けました。そのときのことは今でも覚えていて、30年たった今でも落ち込んでいるそうです。検査をして経過観察のみで良いことが分かりましたが、母と父はどんな思いでいたのだろうと思うと胸が張り裂けそうになります。

生まれた数週間後、両目が白く濁っていることに気づきました。あわてて病院に行くと白内障と診断され「すぐに手術しないと失明する」と宣告されました。「生まれたばかりの我が子が手術?全身麻酔で?」とショックを受けたそうです。結局、ベッドの空きを待ち生後3ヶ月で手術を受け、1ヶ月のあいだ入院しました。

入院中に、目と心臓に病気があることから、先天性風疹症候群ではないか?と生じて聴力検査を受け、「重い難聴で、片方は全く聞こえていない」という残酷な結果が出ました。

目も見えない、耳も聞こえない我が子をこれからどうやって育てていけばいいのだろう?私たちに育てられるのだろうか?両親は絶望したそうです。

手術のおかげで目に光がとどき、今まで人形のようだった子が笑うようになりました。生まれて9ヶ月か10ヶ月ごろに補聴器をつけると表情がさらに豊かになりました。

就学前まで数年かけてリハビリを続け、残った聴力を活用して音声でコミュニケーションをとる方法を身につけ(※当時はまだ「口話法」の時代で話す力が重視されていた)、まわりの人に自分の思いや気持ちを伝えることができるようになりました。

絶望の最中にありながらも両親は私を光と音の世界へと導いてくれたのです。

本のおかげで勉強が好きになり世界が拡がった

小学校時代の写真。公園のアスレチックでネットを楽しそうな顔で登っているところ。

小学校はろう学校ではなく、住んでいる地域の学校に通いました。地域の小学校を選びました。目と耳の両方に障害をあわせもつ私には、まわりの子と同じペースで動くことを求められるろう学校よりも、地域の学校のほうが自分のペースで成長できるだろうと判断されたのです。

地域の学校に通いながら、週に1回、ことばの教室(通級指導教室)でサポートを受けました。先生とお話をしたり、作文を書いたり、心のオアシスのような場所でした。

障害のないこどもたちの中で、耳が聞こえず目も悪いために友達との関係にはとても苦労しました。目や耳からの情報が入りにくいために、友達との会話に入りづらかったり、聞こえにくいことで誤解を受けたり、あるいは誤解してしまったりすることもありました。他の人の顔のようすや声の調子など言葉にあらわれない人の気持ちを理解することも難しかったように思います。

学校の授業の中で苦手だったのは体育です。人や物の動きがよく見えないうえに、光が眩しくてボールが見えないのです。特にドッジボールは地獄でした。どこから何が飛んでくるか分からず怖くてたまらなかった覚えがあります。唯一好きだったのは水泳で、1kmくらいなら今でも泳げます。スキーも、両親の趣味で何度も連れてってもらったので特に好きなスポーツです。

一番好きな科目は国語でした。本を読めば読むほど褒められ、作文で自分の世界を自由に表現できて楽しかったのです。先生からのアドバイスで、本好きにするために親が本を読んでいる姿を見せるという作戦を母が実行した成果でした。本が好きになれば勉強も好きになるという好循環で算数や理科などの他の科目も好きになりました。

本のおかげで、産まれたときには闇と静寂の世界にいた私の世界が一気に拡がり始めました。

コンピューターとの出会い、そして2013年の風疹大流行

筑波技術大学天久保キャンパス正門の写真。

中学には受験をして入学しましたが、新しい環境にうまくなじめず体調をくずして不登校になりました。障害の影響で人とコミュニケーションをとる機会が少なく、周囲とくらべて心の成長が遅かったのだと思います。

高校からは環境が変わったことがきっかけで行くことができるようになりました。なんでも気兼ねなく話せる友達ができたおかげでクラスに居場所が無いと感じることはほとんどなく、安心して3年間を過ごすことができました。

中高通してコンピューターが好きで、ウェブサイトを作り情報発信をするようになったのもこのころからです。自分自身が読みづらいと感じるサイトがあったり、音声コンテンツにアクセスできないことがあったりするため、このころからアクセシビリティに興味を持ちました。

大学はコンピューターのことが勉強できて、あこがれの一人暮らしもできるという理由で筑波技術大学を選びました。目や耳に障害を持つ人を対象とした大学で、ここで手話に出会い、手話を使うようになりました。

北欧のろう教育に関する研修や中国の長春大学へ行かせていただいたり、他大学の聴覚障害学生を支援する部署で事務補助を行うなど、他の大学ではできない経験も得ることができました。

風疹になっていなければ手術を4回も受けずに済んだのに

2013年の白内障オペ、手術直後の写真。

先天性白内障の手術は2段階あり、赤ちゃんの時に水晶体を取り出す手術をしたあと大きくなってから眼内レンズを挿入する手術を受けます。その2段階目の手術を受けたのが、ちょうど風疹が大流行していた2013年のことでした。レンズがずれて再手術になり少し大変な思いをしましたが、めがねや補聴器がなくても周囲とコミュニケーションをとれるようになりました。

この頃に、風疹症候群の子をもつお母さんや風疹症候群で生まれたサバイバーの方と出会いました。小学生のころに「遙かなる甲子園」のドラマを見たことがあり、過去に風疹が流行っていたことは知っていましたが、今でも流行っていることは知らず知りショックを受けました。風疹や先天性風疹症候群のことを知ってもらおうとウェブサイトで情報発信をはじめました。

社会人となった2016年には、緑内障の手術を受けました。 安全を優先するため通常の手術ではなくチューブシャント術を受けることになりました。バルベルトというシャント器具を目の中に埋めこんで眼圧を下げる手術です。異物を入れるわけですから痛みも強く二度とやりたくないと感じるものでした。

白内障の手術、緑内障の手術、どちらも風疹にかかっていなければ、やらずに済んだのにと思います。

「できないこと」ではなく「できること」に目を向ける。

沖縄旅行の写真。池間島のハート岩と砂浜で見つけたハート型の石のツーショット。

2016年から社会人になりました。社会人になってからの最初の壁は、学生時代あまり意識していなかった目の病気でした。一日中コンピューターを使うのでひどい眼精疲労に悩まされました。

短時間勤務からスタートして、大きいディスプレイを貸与してもらったり、作業を少しでも効率化するために工夫を積み重ねて疲れにくい環境を作っり、最終的にはフルタイムへ移行できました。「なんだ、やればできるじゃん」と自信がつきました。

仕事で一番大変だなと思うことは会議です。聴覚障害をもつ人に仕事で困っていることは?とアンケートをとるとトップが会議、それくらい会議は大変です。

大きな会議では音声認識ソフトを使いますし、小規模な会議ではリアルタイムで議事録を作成して、そのまま会議の議事録に転用したり、同僚とも相談して会議の内容がわかるように工夫をしています。

話している人の口を見て、耳で聞いて、とにかく全神経を張り詰めているので、会議は非常に疲れますし、ランチタイムで部署のみなさんと話すのも騒音がひどく分からないことだらけなのですが、フェイス to フェイスのコミュニケーションが大切と感じているので積極的に参加するようにしています。

障害のためにできないことがあり、聞こえる耳があったらできたのにと悔しい思いをすることも、学生のころに比べると増えました。できることは自分でやりたいけど、できないことはどうしようもないので、そのぶんは、誰かができないこと、苦手なことを自分がカバーしてチームに貢献することを意識しています。

「できないこと」ではなく「できる」ことに目を向けることを社会人になって学びました。仕事で大きなミスをして叱られ落ち込むこともありますが、障害のあるなし関係なく誰もが得意分野や不得意分野を持っていて、それをお互い支えあってひとつのチームになる、そこで自分ができることって意外とたくさんあるんじゃないか?というのが実感です。

聞こえる世界と聞こえない世界、二つの世界で生きる。

5月初旬、立山アルペンルートにて、立山連峰の夕焼け。ま雪肌が夕焼けの赤い色にそまり、赤くなっている。私はふだん聞こえる世界と聞こえない世界、二つの世界を行き来しながら生活しています。そして両方の世界で人とつながることができます。

聞こえない世界で使われることばは手話です。手話があれば聞こえない人同士でも会話ができます。私にとっては聞こえない世界が「ホーム」で、聞こえる世界が「アウェイ」です。ホームグラウンドでリラックスしながら話すのはとても楽しいです。

特に楽しいのは聞こえない仲間と旅行に行くとき。お店の方がメニューを手書きしてくださったり、ときには手話を使ってくださったり、旅先で出会う人々のあたたかさを感じます。

聞こえる世界、聞こえない世界、どちらも面白いです。聞こえる世界では音が聞こえますし、聞こえない世界では音が見えます。聞こえないということはネガティブにとられがちですが、二つの世界の違いを感じられるというのは、人生を楽しむ要素も2倍あるんじゃないかとも思うのです。これからもこの人生をできるだけ楽しんでいきたいと思っています。

あの日から約30年の時が過ぎた今でも…

平成1年6月18日、父の日にとった足型。大人の人差し指の付け根から先までの長さ。

あの日から約30年の時が過ぎ、自分自身が母が私をうんだ歳に近づきつつあります。母は30年経った今でも、ときどき「ごめんね」と謝ってくれます。

今の自分だったらあのときどんな思いをしていただろうか、自分なら、母と同じ境遇に耐えられるだろうか。考えれば考えるほど、この病気は他の人には経験してほしくないという気持ちが強くなっています。

私が風疹症候群で生まれたのは、運命の巡り合わせです。親を責める気持ちは全くありません。むしろ、産んでくれてありがとうという感謝の気持ちのほうが強いです。

もし、風疹と分かっていたら生まれてこれなかったかもしれない。心臓病が重かったら、7ヶ月ごろにかかった麻疹で死んでいたかもしれない。生まれてくることができ、今こうして元気に暮らしていられるのは奇跡だと思います。

耳が聞こえず、目に病気をもって生まれてきてしんどいこともありました。聞こえる耳があったら、病気のない目があったら、と何度思ったことか。せめてどちらか片方だけだったらと今でもたまに思うことがあります。その一方で、風疹にかかっていなければ出会えなかったであろう素晴らしい友人たちとのご縁をいただくこともできました。

障害や病気を持っていても決して不幸というわけではなく、健常の人と同じように、嬉しいこと、楽しいことがあり、生きてて良かったなと思います。

それでも、やはり、この病気はなくさなければならないと思います。風疹が流行し、防ぐ方法が分かっていて、防ぐ道具もあるのだから防いでほしいと思うのです。平成最後の、そして令和最初の風疹流行が一刻も早く終わることを心から願っています。

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