風疹と私の30年 – 先天性風疹症候群で生まれて大人になるまで –

2歳のころの写真
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最終更新日 2021.10.14

1987年、風疹が日本列島をおそった。

1987年夏、バブル景気が絶好調のころ日本全国で風疹の流行がおきました。それは三日ばしかともよばれ、子どものあいだで流行る病気と考えられていました。

風疹にかかった人は東京都内だけでも3万人。小児科の医療機関の一部(定点)からの報告数ですから実際には10万人にのぼっていたと考えられます。

当時、20代、30代の女性は、予防接種を受けていないか、女子中学生のとき一回だけという人がほとんどでした。その時点で、男性への接種はまだ開始されていません。

小さなこどもはもちろんのこと、大人のあいだでも流行が起きていて、妊婦さんに感染してしまった例も多かったのです。

全国の聾学校を調査した結果、1987年から89年までの間に少なくとも176人が先天性風疹症候群で生まれていたことが分かっています。2013年の風疹大流行では1万人を超える感染者が発生し、45人の病気や障害をもった赤ちゃんが生まれたことを考えると実際には500人前後いたのではないかと思います。

私が先天性風疹症候群で生まれたのは、この1987年を中心とした風疹大流行が終わりにさしかかった頃でした。

「もし風疹と知っていたら産めなかったかもしれない」

出生翌日の写真。保育器の中ですやすや寝ている。

1988年の夏、妊娠に気づいたばかりのころに、発疹がでて、耳の後ろのリンパ節が腫れていることに気づきました。「風疹にかかってしまったかもしれない」結局風疹との診断がはっきりつかないまま出産の日を迎えることになります。

あるとき、もし知っていたらどうなっていたのかな?と思い切って尋ねてみたことがあります。母は「もし風疹と知っていたら産めなかったかも」と言っていました。

今も昔も風疹にかかったことが分かると中絶を迫られることがあるようです。風疹の流行期には流産や中絶の件数が増えることも過去のデータで明らかになっています。

風疹にかかったかもと気づいたときにもっときちんと調べていれば診断がついたかもしれませんが、妊娠中に風疹とはっきり診断がつかなかったために母のお腹の中にいることができたので幸運だったのではないかと思います。

サバイバーとしての人生を歩むことがきまった日。

1989年夏、白内障の手術で入院しているときの写真。ピンク色のくまの人形とともにベッドに寝かされている。

妊娠中には大きなトラブルはなく、出産の日を迎えました。出産そのものは順調にすすみ、待ちに待った我が子の対面のときがやってきました。ところが、理由を告げられずに別室へ連れていかれることになってしまったのです。

面会は1日に一度保育器越しで、4日目に心臓に異常があるとの説明を受けました。詳しい検査の結果、「心臓に小さな穴があいています。自然に穴がふさがる可能性が高いので経過観察でよいでしょう」ということになりました。

あなたが母親や父親の立場だったらどんな気持ちになるだろうかと想像してみてください。検査の結果を待っているあいだ母と父はどんな思いでいたのだろうと思うと胸が張り裂けそうになります。

母は「あの日のことは今でも覚えていて、30年たった今でも落ち込んでいる…」と、そのときの心境を打ち明けてくれたことがあります。

結局、治療を受けることなく2歳か3歳のころには自然になおったのですが、もし心臓病が重かったとしたら生まれてこれなかったかもしれませんし、ワクチンを接種する前に麻疹で入院もしているので、麻疹で命を落としていた可能性もあります。

桜の花が街中を埋め尽くしていたあの日から風疹ウイルスとのたたかいから生き残った「サバイバー」としての人生がはじまったのです。

次々と明らかになる障害、あきらめなかった両親。

風疹ウイルスが襲うのは心臓だけではありません。目や耳にも侵入し、体の中のあちこちを荒らしまわっていくのです。

まず最初に気づかれたのが目の異常です。両目が白く濁っていることに気づいたのは生まれてから数週間たった後のことでした。

あわてて病院に行くと白内障と診断され「すぐに手術しないと失明する」と宣告されました。生まれたばかりの我が子の目にメスが入り、しかも全身麻酔をかけなければならないことにショックを受けたといいます。生後3ヶ月で手術を受け1ヶ月のあいだ入院しました。

心臓に穴があいた。目は白内障だった。すでにツーストライク状態。先天性風疹症候群なのではないかという懸念が医師たちのあいだにうまれました。

そこで聴力検査を受けることになりました(まだ赤ちゃんなので脳波を測定します)。「重い難聴で、片方は全く聞こえていない」─スリーストライク、バッターアウト。

目も見えない、耳も聞こえない我が子をこれからどうやって育てていけばいいのだろう?私たちに育てられるのだろうか?両親は絶望したそうです。

そんな絶望の日々の中で少しずつ希望の光が見えはじめます。手術のおかげで目に光がとどき、徐々に視力が出てきてペンライトの光を追ったり赤や黄など刺激の強い色を区別できるようになりました。

人への関心が芽生え始めると人形のように無表情だったのが、きゃっきゃっと笑うようになりました。

補聴器をつけると表情がさらに豊かになりました。はじめて補聴器をつけたとき、わたしは突然の大きな音におどろいたそうです。

両親にとって、それは暗いトンネルの先に光がみえた瞬間でした。

“Hello, World.”ーようこそ、世界へ。

目で見て、友達とシェアして世界を広げていく

生まれつき聴こえないこどもは「ことば」という武器を持っていません。赤ちゃんがはじめて補聴器や人工内耳をつけたときに驚いたり、笑ったり、あるいは泣いたりした動画が話題になることもときどきありますが、音が聴こえるようになったからといって、すぐに話が聞こえるようになるわけではないのです。

そこからが精神と時の部屋からはじまる大冒険のはじまりです。聴こえないこどもにとって日本語を話したり聞いたりすることは簡単なことではありません。ダンジョンの奥にひそむラスボスを倒すまで、年単位の時間がかかるものなのです。

とくに序盤のレベル上げにはすごく時間がかかります。病院や聾学校の乳幼児相談室などにいる専門家の力を借りながら、少しずつ経験値を積み重ねていきます。

そこには同じ聴こえないこどもたちがあつまっていて、週に1回、先生とマンツーマンで発音の練習をしたり、グループで遊びながらコミュニケーション能力を身につけていきます。

遠足やクリスマス会などの楽しいイベントもあります。こうしたイベントは経験値ボーナスを得る絶好のチャンスです。

たとえば動物園に行ったとします。そこで「向こうを見てごらん、キリンさんだよ、首が長いね」「わー、ほんとだー」「あっ、あそこに鼻の長い動物がいる。あれはゾウさんだよ」というやりとりをしながら、あたらしいことばを教えるのです。

家に帰ったら、お父さんお母さんに手伝ってもらいながら、動物園でワクワクした体験ををもとに絵日記をかきます。(私は経験していませんが、学校によっては絵日記の内容を暗記させているところもありました。)

次に教室に行ったとき、絵日記の内容を友だちの前で発表します。「昨日、動物園に行ったんだよ。ゾウさんの鼻はこんなに長いんだ。長い鼻でりんごを食べていたんだよ」「ぼくはパンダさんを見たよ」と一人ずつお話をします。

こうして目で見て、体験して、それを誰かとシェアすることで「キリン」「ぞう」ということばが頭の中で立体的なイメージに変換されていくのです。

ことばのネットワークがひろがっていくと目の前にいなくても「キリンが二匹いる」ということばだけで頭の中にキリンがいる様子が生き生きと描かれるようになるのです。

けわしい山をいくつも乗り越えていくうちに少しずつ地図が拡がっていきます。人との出会いや新しい経験が成長の糧となり、たくましい勇者へと変化をとげていきました。

光と音の世界にいざなわれ、ことばで広がってゆく世界、そして見えない壁にぶつかる。

小学校時代の写真。公園のアスレチックでネットを楽しそうな顔で登っているところ。小学校にはいると、家を中心にしていた世界が地域社会へと拡がっていきます。

そこは目がよく見えて、耳が聞こえる人が多数派の世界です。クラスの中でわたし一人だけが目が見えづらく、耳が聞こえないので、勉強だけでなく人間関係づくりにもとても苦労しました。

もし、いま「目が見えなくなるのと耳が聞こえなくなるのとどちらかよいか選べ」と言われたならば、目が見えなくなるほうを取ると思います。

確かに、遠くのものが見えづらい、人や物の動きが分かりづらい、光がまぶしいといったような状態で、体育、とりわけ球技はとても嫌でしたし、厚いめがねをしていて悪口を言われることもあったのですが、それよりも聴こえないことで他の子とのコミュニケーションを取りづらいことのほうが10倍くらい大変だったからです。

学校では、グループ学習など一対多の会話の場面が多くなります。他の子たちとのコミュニケーションを通して自分以外の人の考えを知り学びを深めていく大切な時間です。

ところが聴こえない私の場合には一対一の会話ならなんとかできても、相手が二人以上いるととたんに会話が分からなくなってしまいます。教科書に書いてあることは一応理解できたし、授業そのものにはついていけるけれど、教科書の本文に書かれていない「行間」が埋まらないまま時間が過ぎていきます。

学校に行っても聴こえるこどもと同じように学ぶ機会を得られないという見えない壁にぶつかり、この世の理不尽をいやというほど思い知らされたのでした。

他の人と同じように、耳で聞いて、目でみたい。

小学校に入るまでずっと聞いたり話したりする能力を身につけることに全力をあげていましたが、見えない壁とのたたかいの先にリミット(限界)が見えはじめていきます。

わたしがリミットを感じ始めたのは思春期になって、まわりの子たちの声が低くなり聴こえづらくなったころでした。自分で出している声そのものも声変わりで低くなり、よく分からなくなりはじめました。

小中学生の間は、他の人と同じようにできるようになりたいと思い、一生懸命聞いて話すようにしていました。「あなたは聞こえなくて見えづらいのだから他の人の数倍努力しなければいけません」「聞く努力が足りない」と先生から言われたこともあります。

先生や両親は、聞こえないことを上手に説明して配慮を求めなさいとアドバイスしてくれましたが、聞こえない世界にいるわたしには聞こえる世界のことは分かりませんし、聞こえる世界にいる人も、音のない世界は想像もつかないので結局「聞こえない」ということが分からないのでした。

「聞こえる」とか「見える」という多数派がもっている能力に対して、自分に残されたわずかな聴力、そして白内障の目が、どれだけの情報格差をもたらしていて、さらに多数派の人たちが他者との関係性をどう築いていくのかということも、わたしにはよく理解できなかったのです。

本のおかげで勉強が好きになり世界が拡がった。

わたしは本を読むのが好きです。本さえあれば、魔法の国に行ってハリー・ポッターのように魔法を使うこともできますし、日本から一番遠い国の一つであるブラジルの人々がどう暮らしているかも知ることができます。

とくに「ハリー・ポッター」シリーズが好きで、2000年ごろから読み始めました。第7巻が完結したのが大学生になったばかりの時期だったので、ハリーたちの成長と自分の成長を重ねながら読んでいました。いつか第7巻まで原作を読破したいなとは思っています。

本だけでなく、漫画やゲームも好きでした。聞こえる世界の人々がどう考え、どう行動しているのかということを少しずつ学びました。とくに、ひそひそ声や心の声などは耳から得られないとても貴重な情報でした。

大人になった今では岩波文庫などの文字が薄かったり小さかったりして読みづらい本が電子化され、大きな文字でも読めるようになりました。以前買った本で読み直したいものは電子書籍で買い直すこともあります。

両親も含めて聴こえる多数派がすりガラスの向こう側にいて、わたしはガラスに隔てられた向こうの世界には行くことができないけれど、本を通して違う世界のことを知ることができるのです。

本のおかげで産まれたときには闇と静寂の世界にいた私の世界が一気に拡がり始めたのです。

コンピューターとの出会い、そして2013年の風疹大流行

中学には受験をして入学しましたが、新しい環境にうまくなじめず体調をくずして不登校になりました。障害の影響で人とコミュニケーションをとる機会が少なく周囲とくらべて心の成長が遅かったのだと思います。

そのころだったと思いますが、我が家にインターネットがやってきたのです。家にいながら人とつながることのできる魔法のアイテムでした。

2000年代のはじめは今みたいにブログはなくてHTMLを手打ちします。日記を書いて、それをアップロードして、掲示板やチャットルームを作って交流を楽しむのです。耳のハンデ関係なしにテキストだけで誰かと話せるののが楽しくて、ものすごく夢中になりました。

最初にホームページを作ったのが2001年12月13日。全くアクセスがなくて自分だけがアクセスカウンターを回していました。

そのときはまだブログではなく、HTMLをベタ打ちして作るのが主流でしたし、今のようにSNSで川の向こうから面白いテキストとか衝撃的なニュースが流れてくることはありませんでした。

自分の足で集めた面白いテキストやニュースを紹介するサイトが情報のハブ的存在となっていました。私自身も当時ニュースサイトを運営していてコンピューターに関連する話題を中心にとりあげていました。

そこそこアクセス数もあり手応えを感じていて楽しかった一方で、学校社会の外にある多様な価値観があることを知ることで、アイデンティティが揺らぎ始めました。自分っていったい何者なんだろう?と。

魔法の箱を手に入れたことがきっかけで視野が広がりつつも、自分中心に物事を見ていたのが急に他者の視点が入ってきたことで自分の立ち位置がどこにあるのかが分からなくなっていったのが中学時代だったと思います。

ネットに居場所を求め続けることで現実社会における「生きづらさ」が浮き彫りに

高校からはまた学校に通い始め、リアルの生活はそれなりに充実していました。なんでも気兼ねなく話せる友達ができたおかげでクラスに居場所が無いと感じることはほとんどなく、安心して3年間を過ごすことができました。

一方で、リアル社会は聞こえる人が多数派の世界であり、テキストベースのネット社会とは異なり、情報の壁に悩まされる日々でもありました。

先生が授業でところどころ挟んでくれる雑談がよく分からないし、クラスメイトとのグループワークではいま何を話しているのか分からないこともしばしばでした。

授業で教わる、教科書に書いてある内容が理解できていても、その場で得られるであろう学びを得ることには壁があったのです。

ほんのわずか一瞬気を抜いたがゆえに重要なキーワードがわからず話の全体が分からなくなってしまう、その結果、学びの場にいても自分だけ取り残されてしまったように感じていました。

ネットに居場所を求める一方で、現実社会の中での生きづらさは解消されず、自分という存在が宇宙人のようにも思われ、どう生きていくかという将来像を思い描くことができずにいました。

ネットに出会ったことで「もし耳が聞こえていたら、もっともっと人と楽しく話ができるんだ」ということを知ってしまったがゆえに、現実世界の生きづらさが目に見えるかたちで、より明確にあらわれてきたからなのではないか、と今になっては思います。

手話を知らなかったわたしが聴こえない世界に飛び込んで得たもの。

筑波技術大学天久保キャンパスの正面玄関からみた大学の建物ウェブサイトを作り情報発信をするなかで、自分自身が読みづらいと感じるサイトがあったり、音声コンテンツにアクセスできないことがあったりするため、このころからアクセシビリティに興味を持ちました。

大学は好きなコンピューターのことが勉強できて、あこがれの一人暮らしもできるという理由で筑波技術大学を選びました。目や耳に障害を持つ人を対象とした大学で、ここで手話に出会い、手話を使うようになりました。

とはいっても手話を知らないままいきなり聴こえない世界に飛び込んでしまったので、最初は苦労の連続でした。聴こえない人のなかで、見えづらいハンデがあるので、なんでここにきちゃったんだろうなと思ったこともあります。

聴こえない世界に飛び込んだことで、たくさんの聴こえない仲間と出会うことができました。それで聴こえなくてもいいんだって思い始めたわけです。

今までは、聴こえる世界の人たちに近づくために、頑張って聞きなさいとか、きれいに発音しなさいとか、親や先生の教えを一生懸命守ってきました。でもこれからは聴こえない世界に生まれた聴こえない人間として、自分の道を歩もう、そう決心させてくれたのが手話と聴こえない仲間たちでした。

北欧のろう教育に関する研修や中国の長春大学へ行かせていただいたり、他大学の聴覚障害学生を支援する部署で事務補助を行うなど他の大学ではできない経験も得ることができました。そこでも他大学や海外の聴こえない人たちと出会うことができました。

今思い返すと、学業の面ではもっと努力するべきだったという大きな反省がありますが、聴こえない自分に出会って、揺るぎないアイデンティティを手に入れることができたのが一番の収穫だったと思います。

大人になって白内障と緑内障の手術を受ける。

2013年の白内障オペ、手術直後の写真。

先天性白内障の手術は2段階あり、赤ちゃんの時に水晶体を取り出す手術をしたあと大きくなってから眼内レンズを挿入する手術を受けます。二次挿入手術を受けたのが2013年のことでした。

手術をした理由は、眼鏡と補聴器の両方を外してしまうとコミュニケーション手段が非常に限られたものになってしまうからです。補聴器はなくても筆談なり手話ができるけれど、眼鏡がないと一人では動けないし会話もできない。

レンズがずれて再手術となり少し大変な思いをしましたが、めがねや補聴器がなくても周囲とコミュニケーションをとれるようになりました。温泉に入るときも誰かのサポートを受けずに一人で入れますし、お湯に浸かりながら手話で話すこともできます。

2016年には緑内障の手術を受けました。プレート状のシャントを目の中に埋めこんで眼圧を下げる手術です。目の中の圧力が上がりすぎないように調整してくれて、一定の圧力に達すると目の外に逃してくれます。

そこそこ大きい異物を入れるわけですから普段生活していても何か入っているなというのは感じますし、たまに痛むときもあります。

白内障の手術や緑内障の手術、どちらも風疹にかかっていなければ、やらずに済んだかもしれないものでした。どちらも新しい治療法がどんどん出てきていて、緑内障に関しては0.5ミリの小さいシャントデバイスが開発され、国内でも普及し始めています。後に生まれたCRSのこどもたちがより良い治療が受けられることに期待しています。

2013年、風疹が大流行していることを知る。

眼内レンズを入れたころに風疹が流行しているということを知りました。風疹症候群の子をもつお母さんや風疹症候群で生まれた大人の方とも出会いました。

自分が風疹で聴こえなくなったということは小学生のころには母親から聞いていましたし「遙かなる甲子園」のドラマを見たこともあって、過去に風疹が流行っていたことは知っていましたが、今でも流行っていることは知らずショックを受けました。

2007年ごろに麻疹が流行して大騒ぎになった経験をしていますが、そのときはまだ麻疹の裏にかくされた風疹流行のリスクにまで気づく機会がなかったのです。

そこで、風疹や先天性風疹症候群のことを知ってもらおうとウェブサイトで情報発信をはじめました。

風疹という感染症の怖さを私自身のストーリーを通してリアルに伝えていきたいなと思ったのと、自分より後に生まれた先天性風疹症候群でうまれた子たちのその後の人生を支えていきたいという気持ちがあったからです。

近年ではツイッターなどのSNSを中心に感染症やワクチンに関する不正確な知識が広まり、一部には冷静さを欠くような議論もみられます。

そういった中で、感染症によって後遺症をもった私たちは、医療などに携わる方々と協力し合いながら、感染症やワクチンに関する正しい医療情報を提供し、かつ、冷静に現実的な解決策を提示する役割を担っていかなければと思っています。

「できないこと」ではなく「できること」に目を向ける。

沖縄旅行の写真。池間島のハート岩と砂浜で見つけたハート型の石のツーショット。

2016年から社会人になりました。最初は就職なんてできるんだろうかという不安な気持ちが強く、一歩踏み出すのに時間がかかってしまったのですが、社会人生活を始めて3日で新しい生活に慣れてしまった自分がいてずっこけてしまいました。

社会人になってからの最初の壁は、学生時代あまり意識していなかった目の病気でした。

業務では一日中目を使います。ワードで文書を作成したり、エクセルで細かい数字を扱う仕事もあります。コンピューターの操作自体は得意で、障害のない人にも負けない自信があるのですが、学生のころよりも今のほうが眼精疲労を強く感じます。

短時間勤務からスタートし、大きいディスプレイを貸与してもらったり、作業を少しでも効率化するために工夫を積み重ねて疲れにくい環境を作っていきました。長時間通勤には悩まされましたが、フルタイムにもすんなり移行できましたし、苦手意識のある仕事にも積極的にチャレンジするようにしました。そのおかげで「なんだ、やればできるじゃん」と自信がつきました。

仕事で一番大変だなと思うことは会議です。聴覚障害を持つ人に仕事で困っていることは?とアンケートをとると、第一位にあがるのは、やはり会議なのです。

話している人の口を見て耳で聞くときには全神経を張り詰めて集中しているので、疲労感を感じつつもフェイス to フェイスのコミュニケーションが大切と感じているので積極的に参加したいなという気持ちがありました。

そこで私が入社してまず取り組んだのが、社内に音声認識ソフトを使って、声を文字に変えるソフトを社内で使えるような仕組みをつくる仕事でした。社内には他にも聴覚障害の社員がいて、今では私も含めてみなさんが日常の業務で活用していますし、最近では全社レベルの大きなイベントでも活用が進んでいます。

小規模な会議では、クラウド上でドキュメントを共同で編集できる仕組みを使いリアルタイムで議事録を作成しています。当初は私のために作成してくれていたのですが、私がチームを抜けた後も、そのまま記録に残って便利ということで続けてくれています。

その他にも、上司や同僚のみなさんと相談して、さまざまな工夫をしながら仕事をしています。

障害のためにできないことがあり、聞こえる耳があったらできたのにと悔しい思いをすることも、学生のころに比べると増えました。

一方で、障害のあるなしにかかわらず、誰もが日常的に小さな失敗をおかしては、それをチームでカバーするという場面を何度も経験するようになった今では「できないこと」よりも「できること」に目を向けようと思うようになりました。

仕事で大きなミスをして叱られ落ち込むこともありますが、障害のあるなし関係なく、誰もが得意分野や不得意分野を持っていて、それをお互い支えあってひとつのチームになります。自分の得意分野をもっと広げてチームに貢献できるように今後も努力を重ねていきたいと思っています。

聞こえる世界と聞こえない世界、二つの世界で生きる。

5月初旬、立山アルペンルートにて、立山連峰の夕焼け。雪肌が夕焼けの赤い色にそまり、赤くなっている。私は普段、聴こえる世界と聴こえない世界という二つの世界を行き来しながら生活しています。そして両方の世界で人とつながることができます。

聴こえない世界で使われることばは手話です。手話があれば聴こえない人同士でも会話ができます。私にとっては聴こえない世界が「ホーム」で、聴こえる世界が「アウェイ」です。

ホームグラウンドでリラックスしながら手話で話すのはとても楽しいです。手話は、単なるコミュニケーション手段にとどまらず、聴こえない私たちが互いに直接気持ちを伝えあったりして、かけがえのない思い出をつくるものだと思っています。

特に楽しいのは聴こえない仲間と旅行に行くときです。お店の方がメニューを手書きしてくださったり、ときには手話を使ってくださったり、旅先で出会う人々のあたたかさを感じます。

聴こえない世界、どちらも面白い世界です。聴こえる人にとって、音のない世界は想像したことがないかもしれません。そこには聴こえる世界の人には見えない景色が広がっています。

聴こえないということは怖いとか不安に思うようなことではありません。むしろ音に意識を向けなくてもよくなり頭が休まりスッキリします。他の人とは違う感じ方なのかもしれませんが、補聴器を外して街を歩くときには、左右の視野が広がり、遠くの景色に奥行きが出て色も少し濃くなる気がします。暑い日は余計に暑く、寒い日は余計に寒くなります。デザインをする上で大切なのは、引き算と聞いたことがあります。五感のうちの一つを遮断すると、本質にフォーカスしやすくなるのかもしれません。

実際には全く無音というわけではなく、耳鳴りが聴こえています。もし、難聴ではなく生まれつき音を聞いたことがなかったらどうなるでしょうか。音というものがどういうものかわかりませんから、耳鳴りはしないようです。私自身も、耳鳴りがするのは左側だけで、生まれてから音を聴いたことのない右側からは音がしません。音そのものが存在しない世界は、私にとっても未知の世界です。

聞こえないということはネガティブにとられがちですが、二つの世界の違いを感じられるということは、人生を楽しむ要素も2倍あるのではないかと感じています。これからもこの人生をできるだけ楽しんでいきたいと思っています。

これから作りたい未来

テクノロジーの力で、耳が聴こえづらいこと、目が見えにくいことで生まれる情報格差を縮めていきたいです。

耳が聴こえづらいと、学校の授業で先生の話がよく分からないとか、電車の中のアナウンスが聞こえないとか、買い物をしていて店員さんが言っていることが分からないとか、生活のいろいろな場面で困ることがあります。

聴覚障害という障害は、単に耳が聴こえないというだけではなくて、音から得られる情報にアクセスできないことによって生じる社会的障壁でもあるのです。それは、進学や就労の機会を狭めてしまうことにもつながります。

視覚障害に置き換えても全く同じことがいえます。もし、聴覚障害と視覚障害をあわせもって生まれたら、耳と目から得られる情報はもっと少なくなり、困難の度合いが増します。

補聴器も人工内耳は、最近はどんどん進歩しています。私はアナログタイプの補聴器を使っていた世代ですが、今のものは昔とはくらべものにならないくらい良くなっていると感じます。

音声認識ソフトも私が学生だった10年前とくらべると認識精度が向上し、一気に社会に広まって使われるようになりました。

視覚障害を持つ人のためのスクリーンリーダーだけでなく、一人で自由に移動できるようなナビゲーションシステムの開発も進んでいます。

テクノロジーのおかげで今まで手に入れることが難しかった情報に手が届くようになって、生活がより豊かになり、進学や就労も昔とくらべて選択肢が拡がりました。

まだ私たちがアクセスできない領域はたくさんあるので、目や耳に障害を持つ人が一人取り残されずに社会に参加できるような、アクセシブルな世界を作っていきたいです。

あの日から約30年の時が過ぎた今でも…

平成1年6月18日、父の日にとった足型。大人の人差し指の付け根から先までの長さ。

あの日から約30年の時が過ぎ、自分自身が母が私をうんだ歳に近づきつつあります。母は30年経った今でも、ときどき「ごめんね」と謝ってくれます。

今の自分だったらあのときどんな思いをしていただろうか、自分なら、母と同じ境遇に耐えられるだろうか。考えれば考えるほど、この病気は他の人には経験してほしくないという気持ちが強くなっています。

もし、風疹と分かっていたら生まれてこれなかったかもしれない。心臓病が重かったら、7ヶ月ごろにかかった麻疹で死んでいたかもしれない。生まれてくることができ、今こうして元気に暮らしていられるのは奇跡だと思います。

耳が聴こえず目に病気をもって生まれてきてしんどいこともありました。聞こえる耳があったら、病気のない目があったら、と何度思ったことか。せめてどちらか片方だけだったらと今でもたまに思うことがあります。

その一方で、風疹にかかっていなければ出会えなかったであろう素晴らしい友人たちとのご縁をいただくこともできました。

今こうして病気や障害を持ってはいますが、不幸とは感じません。自分は一人ではなく、誰かのために生かされて、誰かのために生きていると感じます。生まれてこれてよかったなと心から思います。

障害や病気を持つことはイコール不幸ではありません。まわりの人と同じように嬉しいことや楽しいことがあります。重い病気で意思疎通が難しい人であっても、その人に生きる価値がないと切り捨てるのではなく、どうしたら一緒に楽しく過ごせるのだろう、喜びや悲しみを分かち合えるのだろうと考えることが、すべての人にとってより良い未来を作ることにつながっていくと思います。

それでも、風疹の流行はなくさなければならない。

風疹の流行をなくすということは、すなわち、障害を持つ人生そのものを否定することにつながると感じる人もいるかもしれません。

それでも、この病気はなくさなければならないと思うのです。それは、他の人に自分と同じ経験をしてほしくないという気持ちからです。そして風疹によって失われる命をなくして、新たな命に未来を託したいからでもあります。

残念なことに、日本では「早期に先天性風疹症候群の発生をなくし、2020年度までに風疹排除を達成する」という目標をいまだ達成できないまま東京オリンピックの開会式を迎えてしまいました。

私たちはいま新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を通して、ワクチンなき時代のおそろしさを身をもって知らされています。

風疹もワクチンがなかった時代、1964年から65年の間にアメリカで流行が起きたときに2万人の先天性風疹症候群の赤ちゃんが生まれたことが分かっています。社会が不安や恐怖にさらされ、中絶の権利をめぐる議論にも影響をあたえた歴史があります。

さらに、アメリカで起きた流行の影響で米国統治下の沖縄地方では400人を超える赤ちゃんが病気や障害を持って生まれ、風疹障害児のために北城聾学校が設立されました。聾学校の生徒たちが甲子園を目指し奮闘したストーリーは「遙かなる甲子園」として漫画やドラマなどにもなっています。

風疹は「3日ばしか」ともよばれ、麻疹とくらべて軽視される傾向にありますが、母子感染により病気や障害を持った者からすると、小さいころにかかって軽くすむような病気ではありません。時計の針を過去に戻してはならないと強く思います。

流行を防ぐ方法が分かっていて、すでに防ぐ道具もあるのに、なぜ流行を止められないのでしょうか。流行が繰り返されないように、しっかりと対策をしていただくことを願っています。

(終)