志村けんさんが新型コロナウイルス関連の肺炎によりお亡くなりになられました。お茶の間に笑いを届けてくれた、あの誰でも知っている志村けんさんが…。なぜ志村けんさんが亡くなったのか。志村けんさん出なければならなかったのか。そんなことを一日考えていました。
まさかニューヨークが、ロンドンが、そして、あの志村けんさんが亡くなるとは
ダイヤモンド・プリンセス号がホットスポットになったとき、まだ欧米諸国は対岸の火事と捉えていて、日本政府の対応を批判しました。それから1ヶ月もたたぬうちに世界中でクライシス状態に陥っています。
アメリカの一般の人々はまさかニューヨークがこんなことになるとは予想していなかったでしょうし、イギリスの人々もまた今日NHSナイチンゲール病院という野戦病院を建設するにいたるとは想像もつかなかったでしょう。(余談ですが、ナイチンゲールは白衣の天使であり、統計の鬼でもありました。科学の力で闘うという強い意志も込められていると思います。)
アメリカ、イギリス、中国、フランス、イタリア、スペインなど多くの国で、新型コロナウイルスによって日々多数の人々が命を落としています。
日本では、今のところなんとか踏みとどまっています。なんか知らないけど大丈夫なんじゃないかという空気すら漂っているように思われます。志村さんが逝去したことにより「まさかこんなことになるとは」という空気へと、変わっていくことでしょう。
それも、クラスターを追跡できなくなるほど感染が広がれば、一気に崩れ落ちてしまいます。今まさにその兆しが見えているところです。
ウイルスは人を選ばないーイギリスのロイヤルファミリーもコロナからは逃れられなかった。
ここ一週間ほど、著名人の感染が相次いで報じられています。英国のチャールズ皇太子、ポリス・ジョンソン首相でさえも新型コロナウイルスに感染しました。ポリス・ジョンソン首相は軽症とのことですが、外務省の高官が亡くなっています。
ウイルスは人を選びません。実に公平です。ターゲットがあの有名な志村けんさんであるかどうかは関係ないのです。イギリスのロイヤルファミリーであってもこのウイルスに抗うことはできませんでした。
なぜウイルスは志村けんさんの命を奪ったのでしょう。ヘビースモーカーだったからでしょうか。ガールズバー通いを辞めなかったからでしょうか。確かにそれは重症化しやすくなる要因ではありますが、不摂生な人なら世の中いくらでもいます。なぜ多くの人に愛される志村さんがターゲットに選ばれてしまったのか。
誰が生き残り、誰が犠牲になるのか、それを分かつものとはいったいなんなのでしょう。次々と命を落としていく過酷な環境にあっても死なずにすむ人たちもいますー私の二人の祖父がそうです。
私の母方の祖父は不衛生な環境下で生き延び、シベリアの地から帰ってきました。厳しい寒さと感染症で多くの戦友を失いました。祖父がシベリアの土となっていたならば、私はこの世にいなかったに違いありません。
父方の祖父は南方のニューギニアで、やはりマラリアで戦友を失いました。食べるものがないために、亡くなった戦友の体を食べるということもあったようです(祖父自身は食べなかったといいます)。地獄のニューギニア戦線を生き延びていなければ、やはり私はこの世に生まれてこなかったのです。
祖父たちが生き延びて祖国の地を再び踏むことができたのは、なぜでしょうか。亡くなった戦友と祖父たちとのあいだで何が違っていたのでしょうか。
なぜ私が苦しまなければならないのか。なぜ他の人ではなく私なのか。
私は風疹の母子感染によって、生まれながらにして聴力を失いました。母子感染なのですから感染源は母親です。母親のせいでしょうか。母親にうつしたのは誰でしょうか。その人のせいでしょうか。その誰かも、誰かにうつされたのです。
いったい、なぜ神は他人ではなく私たちを選んだのでしょうか。キリスト教の教義によれば(私自身は一応仏教徒なのですが)、人を作ったのは神だとされています。だとすれば、神は耳を二つお与えになったののは、神が二つの耳が必要だとお考えになったからです。それをわざわざ奪う必要が、いったいどこにあるのでしょうか。
以前、当ブログで紹介した『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記』という書籍は、ユダヤ教のラビである著者が、息子アーロンがプロジェリア(早老症)にかかり、なぜ自分の息子が親より早く死ぬ運命にさらされなければならないのか、と悩み苦しみつつ、旧約聖書のヨブ記を読み進めていくという内容なのですが、このようなことが書かれています。
苦しみに耐えるだけの十分な強さがその人に備わっているから、神はこのような重荷を与えるのだという常套的な説明は、まったくまちがっています。私たちに災いをもたらすのは神ではなく、巡りあわせです。
それに対処しようとする時、私たちは自分の弱さを知ります。私たちは弱いのです。すぐに疲れ、怒り、気持ちが萎えてしまいます。しかし、自分の力や勇気の限界に達した時、思いがけないことが私たちの上に起こるのです。
その時、外からの力によって強められる自分を見出します。そして自分は一人ぼっちではなく、神が共にいてくれるのだということを知ることによって、苦しみを生き抜いていくことができるのです。
私たちはとても弱い生き物です。不安や恐怖を感じて、ちょっとしたことで怒りや不満をため込んでしまいます。うまくいっているように思えることでも、ちょっとした失敗で心が挫けてしまうこともあります。
けれども、誰かとともにいることで、苦しみを生き抜いていくことができるのです。私たちをつねに励ましてくれる存在がいるからこそ、私たちは不安や恐怖に落ち着いて対処することができます。
幸いなことに、いま私は孤独ではありません。ネットワーク回線の向こうにいらっしゃるみなさんとこうしてつながり、ドヤ顔で在宅勤務を邪魔する猫の写真や、ため息が出るほど美しい景色によって心の余裕を持ち、そして医療にかかわる専門家のみなさんがボランタリーで提供してくださるさまざまな知識を武器として、危機を乗り越えようとしています。
私は障害を持っていますが、日々の生活や仕事も、周囲の方々の手助けとテクノロジーの力によってこなすことができます。身近にいる家族や友人、そして見知らぬ誰かとともに歩むことによって、私たちは生かされ、そしてまた誰かを生かしているのです。
人の力、それが唯一の希望なのです。
大学生が海外から帰国したあと、コンパや卒業式に参加し、その後、新型コロナウイルスに感染したことが分かったという報道もありました。学生さんたちは、まさか自分がこうなるとは予想していなかったでしょう。
確かに、自粛要請が出ているなかで他人にうつすリスクを高める行動をとったことは浅はかです。私たちは彼らの過ちを教訓にして、繰り返されることのないようにしなければなりません。でも感染してしまったこと、それ自体は彼らの責任ではないのです。
すべては運の巡り合わせなのです。前世での行いも、普段の生活習慣も、国籍や人種も関係ありません。ひょっとしたら次はあなたの番かもしれない。他人に「ざまあみろ」と言っている場合ではないのです。
いまあなたに求められているのは、あなたから誰かにうつしてしまう可能性を少しでも減らす努力をすることです。不安や恐怖から、誰かを偏見の目で見たり、差別をしたりすることではないはずです。
悲しいことに、最前線で戦っている医療従事者の方々に対して「あの人はコロナの病院で働いているのよ」などとうわさを立てたり、ひどい場合には直接の暴力行為を受けることもあるといいます。
私たちは、ウイルスに打ち勝てるほど強くありません。不安や恐怖を感じずにいられるほど強くもありません。しかし、誰かと力をあわせて前に進むことはできます。
この数週間、ウイルスよりも怖いのは人だと実感させられることがたびたびありました。それでも人の力こそがいま目の前にある危機を乗り越えるための唯一の希望なのです。